「せかい」
-あるおじいさんの話-
 くらい部屋に、蝋燭の明かりだけがともっている。天井のコウモリがかすかに異議を申し立てるように揺らいで何か騒いだ。机に向かい、老人は長い長い書物を今書き終えようとしているところだった。老人の生涯の全てをささげた作品は、さらさらと音を立てて文字となりこの世界に生れ落ちようとしていた。部屋の中は暗く、全てものが内包されたように静かで広く、どこに壁やドアがあるのかもわからなかった。そこにいる老人ですらどうやってその部屋に来たのかも覚えていないほど長い時間が経過していた。
「さて」
 か細い蝋燭の明かりの中で、老人は何かを思い出そうとしていた。永い時間が経った。老人はひとつため息をついてその大事業を終えるための小さな終止符をその書物にポツリと落とした。絶え間なく続いていたペンの音が途絶えると、老人は演奏が終わった後の指揮者のように席から立ち上がってお辞儀をした。年老いた指先は喜びに細かく震えていた。沈黙の中で、老人は拍手喝采を浴びているように両手を広げ、耳を澄ませた。
 それからしばらくすると、ゆっくりと、惚けたように彼はまた椅子に腰を下ろした。その目からは、もはや先ほどまであったような目の輝きは消えていた。じり、と炎がゆれて蝋燭が消えた。すぐさま、老人の手は長年の習慣によってマッチを擦って新しい蝋燭に火をつけた。そして、今初めて見たように目の前の書物を手に取ると、金色の縁の眼鏡を掛け、一番初めの頁から読み始めた。読んだ傍から文字は銀色に輝いて、空中につるりと浮き上がっては消えていった。
 そんなことには何も気がつかず、老人は長い長い書物の頁を飽きることなく繰り始めた。

それから、百年が経った。

 一人の少年が、草原で長い長い本を読んでいた。そこには世界のあらゆる話が書いてあり、少年はその最後の話を読み終えるところだった。時は真昼近くであった。少年はいつからその本を読んでいるのか、まったく覚えていなかった。太陽は張り付いたように少年の真上にあった。さわやかな風が草原を撫でていく。少年の鼻は辺りに満ちた草原の匂いを嗅ぎつけてひくひくと動いた。まったくのいい天気としか言い様のない日だった。
 鳥が鳴く。頭上に何かの声がして、少年はやっと本を読み終えた。そして、賢そうな眼をくりくりさせて鳥にささやいた。
「ぼく、何でも知っているんだ」
 鳥は、その言葉を理解したように、また、はぐらかす様に首をかしげると、鳴きながら飛んでいってしまった。少年はそれを追いかけて走り始めた。今読み終えたばかりの小説の始まりとまったく同じように、少年と鳥は丘を越えて見えなくなっていった。
 草原の上には風が吹き、本の頁をいたずらにめくっていた。その本には、まだ何も書かれていなかった。


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by nodeq

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by luce_di_viola | 2012-04-24 03:40 | nodeq
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